70周年記念対談(2017年)

ナカシマの70年の軌跡を振り返り、そして、次の飛躍に向けたヒントを探るために。 創生期からナカシマを支え続けた4名のキーパーソンに、会社の原点と発展の理由、これからのナカシマに期待することをたずねました。

(写真)社員旅行 初期メンバー 1955年(昭和30年)
八木(左端)、喜作社長(右から2人目)、田中(右端)

八木 保弘 YAGI YASUHIRO
1954年入社 元室長

田中 保夫 TANAKA YASUO
1955 年入社 元常務取締役

和田 順 WADA JUN
1969 年入社 取締役
兼 設備営業部 本部長

中井 清博 NAKAI KIYOHIRO
1970 年入社 専務取締役

入社当時の思い出を教えて下さい。

八木:私が入社した頃は初代の喜作社長を入れて社員が4名。取扱い商材は水道の材料くらい。当時はまだ“中島喜作商店”という商店で、商品配達も自転車で行っていました。

田中:八木さんの一年後に私が入社した頃は、社員数は8名になっていました。入社早々5日目に城崎温泉へ社員旅行があって、学生服で参加しました。それはうれしかった記憶がありますね。

八木:当時は2人で5mの鉄管をかついで、自転車で配達していたね。足をつけて休むのも大層で、脂汗を出しながら漕ぎ続けて。今思い出したら懐かしいけどね。

田中:その時は踏切が最大の難所で(笑)。龍野まで自転車で行ったこともありますよ。帰社途中にパンを買うのがささやかな楽しみでした(笑)。その後、社屋が姫路市伽屋町に移ると、中島商事株式会社という会社組織になりました。トラックが導入された時はありがたかったですね。

和田:私が入社したのは伽屋町に事務所があった頃です。まだ社長宅と事務所が隣接していて、家族的な雰囲気が濃かった時代です。従業員は十数名おられた記憶があります。倉庫があちこちに点在していて、その当時は既に相当いろんな商品を取り扱っていました。

中井:それで1969年に姫路市北条に事務所と倉庫を集約したわけですよね。私は北条に移転して2年目の1970年に入社しました。これがまた大きな事務所で、立派な倉庫や寮もありました。八木さん、田中さん、和田さんといった、設備材料に精通したプロフェッショナルの先輩方がたくさんおられるなあという印象でした。

ナカシマでのお仕事内容を教えてください。

八木:入社当時は小さい商店でしたから、何でもやりました。お客様への商品引き渡しや配達、売上伝票の管理なども。営業部と物流を兼務しているような状況で。

田中:最初は配送と仕入れの両方を担当していましたが、後に購買業務の専任になりました。

中井:田中さんは“鬼の仕入れ”で関西の同業界で知られていましたね(笑)。大阪市の仕入れ先7~8軒を一緒にまわると、茶菓子の歓待でお腹がたぷたぷになって苦しくなるほど(笑)。

田中:喜作社長から「利は元にあり」という言葉を教わっていたのでね。1円でも安く仕入れてこそ会社に利益を残せますから。仕入れ先様の間では悪役で通っていたかもしれませんが(笑)。でも、仕入れ先様を大事にすることは、喜作社長から口をすっぱくして言われていました。「理由がない値引はあかん」と。

和田:私も「仕入れ先への支払いはとにかくきっちり払え」と叩き込まれました。私の職歴はと言いますと、入社後4年ほど物流を担当した後は、ずっと営業畑一筋です。営業を始めた頃は高度成長期で、住宅建設ラッシュ。公営住宅やマンションも立ち始めて、水道設備材料からプロパンガス工事材料、エアコン設備材料と取扱い商材の幅が増えていき、売上も伸びていきました。建築設備の進化と広がりとともに、私たちも勉強させてもらいながら発展してきた感じですかね。

中井:私もずっと営業職を務めてきました。私が入社した頃には、ナカシマは姫路市内の同業会社の中でトップランクに格付けされていましたね。姫路周辺の公共施設の案件があると、必ずお声をかけていただいて。10の案件があって1案件でも失注した際には大失態のような雰囲気すらありました。

ナカシマが発展した理由は、何だと思いますか?

八木:やはり時代が味方したんでしょうね。戦後から高度成長期の住宅需要の急増に伴って、水道設備のニーズも飛躍的に増えていったので。また、特に印象に残っているのが、「ナカシマは敷居が高いと言われる」という喜作社長の言葉です。喜作社長は非常に信用を重んじる方だったので、信用関係が築かれていない会社とは簡単に取引を始めない。そのかわりに一旦お取引いただいた会社とは末永く、という堅実さがありました。

田中:ありがたいことに、「ナカシマに言えば何でも揃う」という評判もよく聞きました。代理店経由の仕入れ品ももちろんありますが、実績が上がるにつれてメーカーの直仕入れ品が増えてきました。商品調達力をご評価いただけるようになったのは、うれしい限りでしたね。

和田:そのおかげで1990年代後半のバブル崩壊による景気低迷にもさほど影響は受けませんでしたよね。それに加えて、やはり一人ひとりの従業員が設備工事の現場と商材の両方に精通している点も強みだと思っています。工事会社様と仕入れ先様を、私たちの提案と情報発信で結び、新しい価値をつくりだしていくということを意識してやってきましたから。

歴代社長の思い出や、ご勤務当時のナカシマの社長について教えて下さい。

八木:喜作社長は本当にやんわりとされた方で、お父さんのような存在でした。昔は丁稚奉公のような雰囲気もまだ残っていましてね。喜作社長が若い頃に永宗という会社に勤めていた頃は、リヤカーで商品配達していた話をよくしてくださいました。

田中:社内もなごやかで、家族的な雰囲気でね。そういえば喜作社長が怒る姿をあまり見たことがありませんね。愛煙家で、いつも席で煙をくゆらせていたのを思い出します。

和田:私は喜作社長に叱られた経験はありますけれども(笑)、ただ厳しいわけじゃなく奥に愛情を感じました。喜作社長は私たち若手社員にとっては、親父以上の存在でした。ナカシマは自分の居場所が見つけやすいと感じました。

中井:喜作社長はとても穏やかな性格で、いつも社員の幸福や会社の発展を第一に考えているような方でしたね。私が社長の言葉で覚えているのは、「要るものは100万円でも買え、欲しいものは5円でも買うな」「実印は親子ども以外には押すな、認印は押せ」「高利貸しには行くな」。そして高利貸しに行くくらいなら、わしのところに来い、と。短いお付き合いではありましたが、人生の大切なことを教わりましたね。

八木:二代目の御幸社長が継がれたのは、1980年になりますね。喜作社長のさらに上を行く堅実なお人柄で。

田中:ご病気がちでいらっしゃったので、「社長がいなくても会社がまわる状態にしておかなあかん」と。実質ナカシマを会社組織として育て上げられたのは、御幸社長でしたね。豊岡営業所や津山営業所を開設したのも御幸社長時代の功績です。

中井:今日の強固な財務体制の基盤をつくり上げられた。それを三代目の現・誠一郎社長にきっちりと引き継ぐことを重視しておられました。

和田:「石橋を叩いても渡らない」と自ら言っておられたほどの慎重な経営方針を貫かれ、初代の喜作社長がつくられた芽をしっかりと育て上げられたという印象です。

これからのナカシマに期待する事とは?

田中:今日久しぶりに社屋を訪れて、「活気があるなあ」とうれしくなりました。たくさんの若い従業員が生き生きと働いていて、何か勢いを感じました。

八木:時代の流れに対応した、新しい事業を積極的に展開していると聞いています。お取引様を大事にするというナカシマの良さも受け継ぎながら、そういった芽をどんどん伸ばしてほしい。もともと勤めていた会社が発展してくれると、私たちも誇らしいですからね。

和田:先輩方が築いてこられた地盤をベースに、新しい事業の芽が育とうとしています。それを大樹に、ひいては広大な樹林に育てるために、私自身も日々勉強を続けていこうと思っています。と同時に、創業時から続く設備営業部の地盤固めも引き続きしっかりと行っていくつもりです。

中井:ある会社が社会から要請され続けるには、様々な要因があると考えられます。安い、早い、正確である、丁寧である、人間性がいい、など。僭越ですが、その総合点が高かったのがナカシマであり、70年もの間社会から求められ続けた理由なのかなと考えています。先輩方や今いる従業員の皆さんとともに70年間培ってきた信頼は、かけがえのない財産だと思います。その宝物を大切に生かしながら、さらなる発展を目指していきたいものですね。

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